猫の裏側の毛の絨毯

口は災いの元だが思考停止は駄目だよね

人に聞いてもらいたいこと

複雑な家庭環境のティーンエイジャーと触れ合う機会があるのだが、彼らの心の奥の特に柔らかくて傷つきやすい部分を守る殻は自然に孵化させるには時間がかかり、粉々に砕くのは一瞬だと思う。その殻を自ら破らせるように促すのは周りの大人の役割だけども、それは決して一人なんかではできないと学んだ。小学校の頃植物が萌芽するには、光、水、土、空気が必要だと習う。それと全く同じで、一人の大人だけで、光、水、土、空気を与えようと(与えられると思い込む)するのは不可能なこと。それを客観的に聞いたら納得するとは思うけど、実際に関わると人は善意のうちで、自分がなんとかしなきゃ、自分しかいないと思い込んで突っ走ってしまう。大人にはもう立派な大人なんだからと意見を尊重される部分で、年齢や外見、社会経験だけで、自分自身の決定に首を突っ込まれるというのは本当に辛い。だから周りの大人、本人じゃない人はその人の本当に思っていること、考えていることをできるだけ整理できる様引き出すために支援をすべきだと思う。精神的に追い詰められている人々対しての支援には、支援の例外は存在するけど。

自戒の意味でも最後に書くが、私の人生は私だけのもので、私にしか責任が取れない。だから自分が本当に正しいと思って生きるべき様に生きてほしい。そしてその有様を考える時間を持ってほしい。ここだけが生きていく場所じゃない。

猫の裏の毛の絨毯について

最近ぼんやりと自分が(癒し)を求めていることに気づいて、それについて思いをはせている。

普段私の気持ちは私だけのものだと強がって、猫だの犬だのの可愛くてふわふわしている動物たちの力なんて必要ないとのたまっているけれども、ツイッターなどで写真が流れてくると保存して見返してしまう。

挙句には動画も通信制限そっちのけで再生している。

結局は、今はそういうひたすらの優しさと自分が無下にできるほどの手軽で純粋で一途な愛がほしいのだなと。

そういう愛を常に欲しているっていう弱くてみじめな気持ちを恥と思わず口に出せる勇気や、何かに頼らないといけない自分の弱さを認められる強さがあったならもっと(生きる)が普通にしていることだったのかもしれない。

私は自分のことを表現して、自分のことを見てほしいと素直に言える人に嫉妬していたし、裏返しで嫌いになっていたりしていた。

この日記は私のゆがんでしまった自己表現欲求の表し方のリハビリみたいなものだし、これを機に長く続くものが一つ作れればなと考えている。

学科に入った真の目的も果たせれば尚よいが、雑文な故難しいかもしれない。

哲学を創作意欲に還元する。ちなみに日記を書くことは三日坊主でした。

 

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